ようやく4分の3まできたか…。
始めた当初は、
百首のパロディなんてあっという間、
と思っていたのだけれど、
意外としんどい。
というのも(言い訳だけれども)、
こうやって一首ずつじっくり取り組むと、
この百人一首というのは、
必ずしも「名歌」のアンソロジーではないのだな。
だからこそ、
なぜ定家がこれらの歌を選んだのか、
という、謎解きも諸説出てくるわけだけれども、
とにかく、百首は玉石混交で、
パロディを作る気分が、
まったく乗らないものも多い。
まぁ何を書いても言い訳ですが、
この記事を楽しみにしている人もいないと思うので、
相変わらずマイペースでいきます。
第七十三番歌
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみ立たずもあらなむ
(前権中納言匡房)
【替へ歌】
霞立つ外山に君の声聞きて
彷徨ひ入れば、ただ桜花
もはや古文の授業めいてきたが、
原歌の「立たずもあらなむ」の「なむ」は、
いわゆる「他者願望」だか「他力本願」だかで、
要は、「立たないで欲しい」ってこと。
山の桜が咲いたから、
霞が立って邪魔しないでね、
っていうのが原歌のニュアンス。
まぁ、ステレオタイプの歌なので、
これを替へ歌処理するならば、
恋の心情をプラスして、
奥行きを持たせる、
そして、視覚だけのところに聴覚を加えて、
感覚の振り幅を持たせる、
そんなところかな。
恋しい人の声を聞いた気がして、
霞立つ山に分け入ってみれば、
そこには思わず、満開の桜、
そんな替へ歌です。
そろそろ桜の季節ですね。
疫病と桜。
そんなテーマの作品が、
あったような気も。
第七十四番歌
憂かりける人を初瀬の山おろしよ
激しかれとは祈らぬものを
(源俊頼朝臣)
【替へ歌】
激しきは我が恋ゆゑか隠りくの
初瀬の山に嵐吹くらむ
原歌は結構分かりづらい。
つれない人を振り向かせるように、
初瀬の山おろしにお祈りしたのだけれど、
ますますつれなさが増したじゃないの、
どうしてくれんのさ、
というのが原歌の意味。
何もそんなに、
回りくどく表現しなくても良さそうだし、
いかにも作り物っぽく、
心が入っていないというのが、
1,000年を経ても分かるわけで、
なぜこれを定家ともあろう人が、
百首に入れたのかが、
理解に苦しむ。
替へ歌としては、
せっかく「初瀬(はつせ)」という固有名詞があるのだから、
とりあえずはこれに便乗して、
枕詞(「こもりくの-初瀬」)で凌ぐことにする。
あとは原歌のニュアンスを損なわないように、
スラスラと。
定家先生、
替へ歌の方がよくないですか?