出張なんて、何年ぶりだろう。

真夏から梅雨に逆戻りした空の下を、
堂島川に沿って、
淀屋橋から西へと歩く。

ちょうど昼休みの時間ということもあり、
大きなビルの立ち並ぶこの一帯は、

ビジネスマンやOLが、
賑やかに往き交う。

まぁこちらとて、
旅行に来たわけではなく、
仕事中には違いないのだが、

昼飯時間を節約して、
美術館へと向かう自分は、

よそ者ということを除いても、
やはり周りからは、
浮いている気がしないでもない。

ブラブラと20分ほど歩き、
今年2月に開館したばかりの、
大阪中之島美術館に着く。

大阪中之島美術館

無機質とも言える黒い外観と、
現代版スフィンクスのような猫のオブジェとが、
不思議なバランスではある。

建物の中に入ると、
広々として天井も高く、

美術館というよりも、
イベント会場のようで、

良かれ悪しかれ、
初めて国立新美術館を訪れたときの、
感覚に近いかな。

目指すモディリアーニは5階、
天界への通路のような、
ひたすら長いエスカレータを上る。

モディリアーニ展@大阪中之島美術館

モディリアーニといえば、
誰もが思いつくのが、

あの細長いフォルムと、
塗りつぶされた眼をもった、
独特の肖像画。

ただ今回、
自分が考えさせられたのは、

そのフォルムよりも、
眼の方だった。

「目は口ほどに物を言う」
「目は心の窓」
という表現は言うに及ばず、

英語でも、
「hit someone between eyes」(印象付ける)
「have a roving eye」(浮気性)
という表現があるようで、

要は眼というのは、
コミュニケーションの手段であり、
ある種の「通信器」と呼んでもいい。

(そういえば、古代中国の戦場では、
額に描いた「第三の眼」で、

敵を睨んで呪い殺す役目の者がいた、
という話を聞いたことがある。

あ、「役目」も「目」だな。)

優れた肖像画においては、
間違いなく眼に力がある。

その眼によって、
絵は観る者に何かを訴えかけ、

観る者はそこから、
モデルや作家の、
内面を窺うことになる。

それがおそらく、
伝統的な絵画の楽しみ方であり、

まさに眼が、
「通信器」である所以でもある。

ではその眼を、
塗りつぶしたらどうなるのか。

当然ながら、
観る者に訴えかける「力」は、
なくなる。

僕はそう思っていた。
だからモディリアーニは苦手だった。

観るものを拒むような、
その冷徹さ。

それはもはや人物の肖像ではなく、
物体の描写にすぎない。

そう思っていたのだ。

おそらくその解釈は誤っていない、
と思う一方で、

果たしてそうなのか、
という不安というか、
確認したい気持ちがあった。

それが今回、
わざわざ足を運んだ理由でもある。
(そういうわけで、
大阪市立美術館ではフェルメールを展示していたが、
自分は迷わずモディリアーニを選んだ。)

さて、彼の作品を観るにつれ、
どうも自分の考えは間違えていることに、
気付かされた。

「通信器」である眼が、
塗りつぶされることにより、

逆に、
観る側が何かを求めて、
絵の方に飛び込んで行かざるを得なくなる。

そうすると不思議なことに、
塗りつぶされた眼であっても、

喜怒哀楽を含んだ感情を、
訴えかけてくる気がするのだ。

こちらから飛び込んで行かない限りは、
冷徹でしかない眼が、

一度心を開くと、
むしろ「通常の眼」以上に、
生き生きとしてくるではないか。

その発見が、今回の収穫だった。

「眼」に頼らずとも、
モデルの、あるいは作家の、
内面を感じることができる、

これこそがまさに、
この夭折の画家が目指した、
芸術の姿ではなかったのだろうか。

「小さな農夫」(モディリアーニ)

「少女の肖像」(モディリアーニ)

「若い農夫」(モディリアーニ)

「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」(モディリアーニ)

もちろんモディリアーニには、
「通常の眼」の肖像画もある。

それはそれで、
また独特の個性を備えており、

「塗りつぶされた眼」
の作品群と比較鑑賞することで、

この作家が目指したものが、
見えてくる気がする。

「耳飾りの女性」(モディリアーニ)

「若い女性の肖像」(モディリアーニ)

「ズボロフスカ夫人」(モディリアーニ)

「おさげ髪の少女」(モディリアーニ)

「目は口ほどに物を言う」
「目は心の窓」

これらの言葉の深い意味を、
あれこれと考えながら、

職場に向かうために、
美術館を後にした。

美術館の外は、
もはやすっかり梅雨空だった。