藤井 貞和 著「物語史の起動」(青土社)
いまさら「物語史」について、
そう新しい切り口はないだろうと思いながらも、

新刊、しかも青土社かつ藤井貞和だと、
ついつい買ってしまう。

著者は物語史を以下のように分類する。
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神話紀:ほぼ縄文時代
昔話紀:ほぼ弥生時代
フルコト紀:ほぼ古墳時代
物語紀:7~13、14世紀
ファンタジー紀:中世後期~ほぼ現代
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本書で主に触れられているのは、
上記の神話紀~物語紀についてである。

言うまでもなく、
○○紀という表現は地質学に倣っているわけだが、

地質学においては、
「化石」という動かぬ証拠を以て、
時代を分類するのに対し、

著者による物語史の分類は、
フルコト紀以前は、想像の域を出ない。
(何しろ「証拠」=「文献」がないのだから)

そもそも、神話や昔話というものが、
どちらが先でどちらが後かという、
相対的な比較すら意味がないと思われるのに、

それぞれを、縄文、弥生と、
いわゆる「歴史時代」に対応させることが、
果たして有意義なことなのか。

さらに著者は、
「昔話」のパターンとして、

1.モチーフとして稲作が登場するもの
2.モチーフとして稲作が登場しないもの

があるとし、

「1」は弥生時代に、
「2」はそれ以前(縄文)に出来たものだと推測しているが、

それにも根拠がない。

「1」は稲作地方の、
「2」は非稲作地方の「物語」ではいけないのか。

文学という学問?の性質上、
限られた題材から推論せざるを得ないし、
それを実証できないのも承知のうえだが、

とはいえ、今更このような著作をものし、
5,000円近くを取るのは、
読者泣かせですなぁ。。

ここまできたので、
批判がましい話を続けるのであれば、

この本の力点がどこにあるのかが、
よく分からないこと。

物語史、しかも古典作品史について語るということは、
物語を書く(語る)側と、
それを読む(聴く)側との、
関係性を詳らかにし、

著者の言うそれぞれの「紀」の中で、
それらがどのように変遷していったのか、

について明らかにすることだと思うのだが、

『源氏物語』については、
テーマと関係のないディテールに迷い込んだり、
『落窪』の作者が女性だと力説したり、

正直、そんなことはどうでもいい、
という袋小路に入り込んで、
肝心のテーマがなおざりにされている。

そして何よりも問題視したいのが、
著者の言う「ファンタジー紀」を、
完全に無視してしまっていること。

歴史というのは、
過去から現在に流れるのは言うまでもないが、

時には、現在から過去に遡ることも、
重要な視点となる。

その意味で、
現在につながる「ファンタジー紀」は、
「物語史」にとって欠かせないはずであり、

「琵琶法師」の弾き語りに、
そこまで紙面を割くのであれば、

なぜ「語りもの」の究極芸である「浄瑠璃」
(これはまさに「ファンタジー紀」に属する)
については、1行たりとも触れないのか。

何かと不満が残る。

まぁ、古典の研究なんて、
もう限界はあるかな。