高知まで足を運んだ甲斐があったというものだ。
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絵金の存在自体は知っていた。
しかしながら、これは東西における文化的競争意識なのだろうか、
東京で生活をしていると、
絵金の作品に触れる機会は、ほとんどない。
だから僕はしばらくその存在を忘れていた。
今回、高知へ行った際、
たまたま美術館の横を車で通りすぎたとき、
「大絵金展」の看板が目に入った。
もしもこの看板が目に入らなかったら、
僕は、この稀代の奇才を知らずに一生を終えていたかもしれないと思うと、
偶然には感謝する他ない。
看板を見た次の日の朝、二日酔い&寝不足も、
絵金の絵を一目見た瞬間、ブッ飛んだ。
紛れもない天才の作品が、そこにはあった。
国芳や北斎とも違う。
そもそもこちらは肉筆画である。
度胆を抜く表現、巧妙なレイアウト、絶妙な配色、
どれをとっても、同時代のどの画家にも劣らない。
怪奇、悪趣味、という人もいるだろうが、
それは芝居絵屏風という性質上、仕方のないものだ。
絵金はそこを逆手にとり、
だったら、許される限りの最大限の見せ方をしてやろうと、
自信たっぷりに筆をとったに違いない。
僕がなによりも一番関心したのは、
背景の細やかさである。
普通この手の画になると、
中心に集まる人物達に力点が集まりすぎて、
バランスの悪い構図になるか、それ以外は手抜きになるか、
どちらかだ。
しかし絵金の場合は違う。
同時に進行している他の場面や、
あるいは人物たちの過去の時間(これは中世からの伝統でもある)の場面を背景に描くことで、
空間的には勿論のこと、
時間的な奥行も発生させているのだ。
誤解を恐れずにいえば、
これは世阿弥の編み出した能の仕組みと同じだ。
能とは、極限にまでシンプルにされた舞台の上で、
時間と空間を自由に往き来する芸術である。
絵金の場合は、極限にまで華美にされた屏風画の中で、
時空を自由にコントロールしているのである。
これは決して凡人には成し得ぬ技で、
しかも彼の作品では例外なく、
徹底して使用されている技法でもある。
そして、ウルトラマリンブルーと黄色という組み合わせ。
これはフェルメールを彷彿とさせる。
魅力を挙げたら、キリがない。
美術作品を観てここまで心を動かされたのは、
いつ以来だろう。
ちょっと記憶にない。
最後に、地元高知では、絵金の絵は、
実際のお祭りの場で、
今でも屏風としてディスプレイされるという。
それを再現して展示した、
高知県立美術館の企画も立派。
絵金と龍馬と鰹のたたきを生んだ土佐、恐るべし。
[…] まずは高知県立美術館に寄り、「大絵金展」を見る。 […]
[…] 「大浮世絵展」と銘打っておきながら、土佐の生んだ異端の浮世絵師・絵金の作品が一点もないとは、 […]
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