約1か月しか開催期間がないのだが、
仕事に忙殺されてついつい行くことができず、

ようやく行ってみたら入場するだけで「80分待ち」(!)ということで、
その日は後に予定があったから断念。

数日後に、待つことを覚悟で再チャレンジしてみたら、
今度は「50分待ち」。

まぁ、前回よりかはマシか、と諦めて待つことにした。

大概の人の目当ては国宝の2点、
「松林図屏風」か「松に秋草図屏風」なんだろうけれど、
僕の目的は違ったわけで、

だからこそこんなに松、ではなく待つのがもどかしいのだが、
今回のターゲットは「柳橋水車図屏風」

画質の悪い図版でしか見たことがなかったのが、
予想通りであるならば、この画は相当に興味深い。

果たして予想は的中。

この屏風の何が興味深いのかと言えば、
題材としては、「橋」「川」「柳」・・・、
そう、これはまさしく典型的な「宇治十帖」のオマージュである。

別に珍しくないどころか、
あぁまたか・・と思いたくなるぐらいだ。

しかしそれぞれのパーツを見てみると、
等伯という人のスゴさが一目瞭然となる。

柳の葉の描き方の新鮮さもさることながら、
右手前にある幹の、この異様なまでの存在感。

そして、川の流れを表すのに用いた、
大胆なパターン化(デザイン)。
※水流のデザインは、現代の加山又造のそれとそっくりだ。

それらはまるで、
ちょうど100年後に登場するあの天才画師の得意とする手法、
とりわけその人が「紅白梅図屏風」で発揮した手法を、
先取りしているかのようではないか。

それは今回の展示のもう1つの目当てでもあった、
「波濤図」を見たときにも感じた。

こちらの”水流”は、
「柳橋水車図屏風」の様式化された水流とはまったく違うのだけれども、

まるで紋様であるかのようにうねる波の描き方は、
後の尾形光琳を彷彿とさせるのである。

僕はこっち方面の研究者ではないので、
光琳がどのレベルまで等伯の影響を受けていたのかは、
定かには分からないけれども、

少なくともある時期の等伯は、100年後の光琳が、
いや江戸末期まで続く琳派の画師たちが目指していたものと、
同じものを目指していたのではないかという気がする。

それは、日本文化の様式というものに敢えて浸り、
それを逆手にとって、
極めて抽象度の高いパターンへと昇華させる、
つまりデザイン化するという行為なのではないだろうか。

そんなことを考えながら、
最後の展示である「松林図屏風」を、
人だかりの後ろから眺めてみる。

するとこの松が、
また違った表情で見えてくるから不思議である。

やはり等伯という人は、タダモノではない。
柳橋水車図屏風

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