先週は月曜日に何十年かぶりにインフルエンザの予防接種を受けたのだけれど、
それが原因なのかどうか、ずっと体調が悪く、
これを鑑賞しに行った日曜日が、ドン底。

あーでも、最近は普段使わない筋肉を使っているから(理由は内緒)、
そのせいかもしれないと思って、

こちらも久しぶりのマッサージに行ったら、
血行が促進したのか、かなり体調が回復。

これはそのマッサージへ行く直前、
肩と背中にズッシリと重いものを背負った状態で鑑賞したレポートである。
(だから何というわけではないのだが・・)

パナソニック汐留ミュージアムには、ルオーの常設があるので、
それだけでも足を運ぶ価値は十分にある。

ルオーの激しさと暗さと繊細さが混在した、あの独特の世界観は、
語り始めると長くなるし、今回の主題ではないのでやめておこう。

今回の展示は、「ポン=タヴァン」と「総合主義」がキーワード。

ポン=タヴァンとは、ゴーギャンがまだ南海に旅立つ前に滞在していた、
フランスの田舎町であり、
多くの画家たちの集まる「芸術村」的な場所だったそうな。

豊かな国土は、都市(パリ)⇔田舎(ポン=タヴァン)のような空間的構造を生むことになり、
それがそのまま芸術性の豊かさや多様性につながるわけで、

たとえば、江戸か上方か、などというレベルでしか比較され得ない、
日本の同時期の芸術活動と比べると、その差は歴然としている。

そのポン=タヴァンでの滞在が、
ゴーギャンらに「総合主義」を芽生えさせるきっかけになった、
というのが美術史的説明なのかもしれないが、

そもそも僕は、美術における「~主義」という分類が大キライで、
そんな枠組みがあるから、本当に絵を楽しもうとする気持ちが削がれるわけで、
どうしてもグルーピングしたければ、自分の感性に従えばいいのである。

ピカソと歌麿を似ている、と感じる人がいたとしても、
それはそれで素晴らしいに違いない。

大切なのは、分かることではなく感じることである。

なのでここでは「総合主義」が何かという説明は、思い切って省略!

どうしても知りたい方は、wikipediaへでも。

さて、いつも通り気になった作品の紹介を始めよう。

「黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ」(モーフラ)。

「黄色い黄昏、海岸の泥炭地、ロクテュディ」(モーフラ)

「泥炭地」という、絵の題材としては不適切に思われるものを、
大胆に美しく描いた作品で、

奥の松林や、右側の小舟が画面にアクセントを与えているというのもポイントなのだが、
注目したいのは、とにかく色。黄昏と泥炭の黄色だ。

画像だと分かりにくいが、泥の茶色と黄色のコントラストが素晴らしく、
印象派の画家たちが見向きもしなかったような色彩の妙を実現している。

お次は、ドニ。

ドニの作品はいつ見ても、この画家を好きになることはないのだろうな、と思ってきたのだけれど、
今回でその評価は一転した。

「マロンと紫陽花」(ドニ)。

「マロンと紫陽花」(ドニ)

まるで切り絵のような、平面とパーツが支配する空間の中で、
静と動の混在や、左奥のトンネル(?)のような穴とそこから伸びる陰が作る奥行が、
ほどよいスパイスを効かせており、観ていて心地よい。

「マロンと紫陽花」の対比は、そのまま「母と娘」の対比でもあり、
そこに垣間見られる物語性のようなものも、この作品の魅力になっていると思う。

最後は、やはりゴーギャンも採り上げておこう。

「2人の子供」(ゴーギャン)。

「2人の子供」(ゴーギャン)

いかにもゴーギャンらしい平面性と色使い、構図と、
とても子供とは思えないぐらいに、何かを秘めた2人の表情。

この後の、タヒチを描いた作品にみられるゴーギャンらしさが、
すでにここでは全開になっているようで、

2人の視線が、こちらを見ていないことが不安を掻き立てるのだろうか、
じっと眺めていると、不思議な気持ちになってくる。

この、なんかモヤモヤした気持ち、これが大事なのであって、
それを「総合主義」と呼びたければ、それでイイと思う。

もしあまりゴーギャンを観たことがない人であれば、
これを機にいくつかの作品を眺めてみるとよいかもしれない。

きっとこの「2人の子供」から受けるのと、
同じような感覚が生じていることに気付くと思う。

それこそが作品をカテゴライズできたということであり、
「●●主義」を頭で理解するのとは、別次元の「知識」になってくれるはずだ。