「我が子を喰らうサトゥルヌス」

「我が子を喰らうサトゥルヌス」

芸術とは、須らく美しくあるべきなのか。

だとしたら、そもそも美しいとはどういうことなのか。
内容なのか、形式なのか。

形式的な美しさであれば、すぐに理解できる。

では、内容的な美しさはどうなのだろう。

作者・作家が真実を吐露することが、
内容の美しさにつながるのか。

その場合、形式的な美しさを伴う必要があるのか、
そうではないのか。

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禅問答と一緒で、これらの問いに答えがないのは分かっている。

答えがないからこそ、追い求めたくなるのであり、
芸術の本質の一面も、またそこにある。

僕は、このゴヤの絵を眺めるたびに、そんなことを思うのである。

 

「我が子を喰らうサトゥルヌス」

 

18世紀末から19世紀の初頭、通常の画家であれば、
貴族から依頼された虚飾に満ちた絵を描いていればよかった。

しかし、ゴヤの場合は、
まさに同時代のベートーヴェンの音楽のように、
自らの魂をそのまま作品にした、真の意味での芸術家だった。

それにしても、恐ろしいを超えて醜悪ともいえる絵だ。
目を背けたくなる人もいるだろう。

僕はこの絵から、2つのことを感じる。

1つめは、人間の本質の醜さ。

人間は、あらゆる欲にまみれた存在である。

それを抑制するのが、理性であり社会的秩序であるのだが、
このサトゥルヌスの理性を失った眼はどうだろう。

これは狂気ではなく本質なのであって、
ゴヤはそれに絶望しているわけでもない。

むしろ冷めた鋭利な目で、
人間というものを分析しているのではないか。
(そもそも描くという行為自体が、客観性をもっている)

2つめに感じるのは、芸術家ゴヤの決意である。

これが描かれたのは死の数年前。
すでに聴覚は失われ、失意のどん底にあった。

それでもまだ、我が子を喰らってまでも生きようとする貪欲さ。

これが人間の本来の姿なのだとしたら、
もはやそれを隠す必要はない、なりふりかまわず、
全エネルギーを創作へと向けようとした、
決意(あるいは覚悟といった方がよいかもしれない)にも受け取れるのである。

この絵について語るとき、
サトゥルヌスとは何者なのか、なにゆえに我が子を喰らうのか、
などというストーリーは、もはや意味をなさない。

ありのままの人間の醜い姿と、それを逆手にとって、
むしろその境地にまで自分を追い込み、
高めようとする芸術家ゴヤの姿こそが、
この絵の発する強烈なメッセージなのだろう。

そこで最初の疑問に立ち戻れば、
果たしてこの絵は美しいのかどうか。

僕はまだ答えを迷っている。

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