「ハマスホイとデンマーク絵画」(東京都美術館)

「ハマスホイとデンマーク絵画」(東京都美術館)

デンマークは、北欧と言うよりも、
北欧とドイツとの中間、

日本人には結構馴染みが薄い国だと思っていて、
僕が思い付く「デンマーク」といえば、

まずは何と言っても、
ビールのツヴォルグとカールズバーグ、これは鉄板。

次に、ケプラーの師であった天文学者のティコ・ブラーエ、
童話のアンデルセンに、作曲家のニールセン、
あとは、、レゴか。

これが多いか少ないかは分からないが、
ただ、絵画ということになると、

ハマスホイをかろうじて知っていたぐらいで、
果たしてどのような作家・作品があるのか、
見当も付かなかった。

今回の展覧会を観て、
「これぞデンマーク絵画」と括るには軽率ではあるが、
総じて思ったことは、光の描き方が上手いこと。

確かデンマークは日照時間が少ないはずで、
逆に、だからこそ、貴重な日光の効果を、
絵画表現に積極的に採り入れたのだろう。

さて、展示内容としては、
ハマスホイと、彼以外のデンマーク画家との、
大きく二部構成となる。

まずは、ハマスホイ以外のデンマーク画家のパートから紹介。

・ミケール・アンガ「ボートを漕ぎだす漁師たち」
ボートを漕ぎだす漁師たち(ミケール・アンガ)
スケーインという漁師の町で、
好んで描かれた題材らしいのだが、

この大きな絵の前に立つと、
潮の香と水沫を含んだ冷たい海風が顔に吹き付けてくるかのような、
リアリズムと緊張感がある。

特に画面中央付近の青い上着の男性の姿勢が、
この作品の動的性を決定していて、

また、舟を出す男たちを右端で見守る人々の、
不安そうな表情と視線とが、作品に厚みを増している。

次に、テーブルを囲む人々を描いた二作品。

・ピーザ・スィヴェリーン・クロイア「朝食ー画家とその妻マリーイ、作家のオト・ベンソン」
朝食ー画家とその妻マリーイ、作家のオト・ベンソン(ピーザ・スィヴェリーン・クロイア)

・ヴィゴ・ヨハンスン「春の草花を描く子供たち」
春の草花を描く子供たち(ヴィゴ・ヨハンスン)

どちらも明るい色使いが特徴で、
あたかも自分が彼ら同じテーブルに向かっているかのような、
アットホームな気分にさせてくれる。

前者の絵は、歓談する3人の表情や手つきが絶妙で、
食卓の上の細々したもの(卵の殻とか)もよく描けており、

また、女性の服とその向かいにある花の色、
男性二人の服と壁紙の色といった、
色彩的な調和も素晴らしい。

後者の絵は、子供たちが、
四者四様に絵に取り組んでいる姿が何とも微笑ましく、

それぞれの視線を全く別方向に向けていることと、
鮮やかな色使いの中において、カーテンが重い色であることとが、
全体のバランス感を上手く調整している。

次の絵では、室内における光の表現に注目したい。

・ラウリツ・アナスン・レング「遅めの朝食、新聞を読む画家の妻」
遅めの朝食、新聞を読む画家の妻(ラウリツ・アナスン・レング)

女性のリラックスした姿勢と、食卓の様子とで、
朝食後ということを見事に表現しているが、

奥の扉から射し込む朝の光を、
新聞紙、食卓、そして床の半分が受け、

それた対比するかのように、
椅子の手前の床が陰になっている。

これが昼であれば、
椅子の陰はここまで伸びることはないのだが、

まだ日がそれほど高くない時間帯であるために、
光と陰とのコントラストが生じている。

そして画面周囲に配置された、
家具の青、植物の緑に対して、

女性の服、食卓、新聞紙といった、
白系の色を中央付近に配しているのも効果的だ。

・ギーオウ・エーケン「飴色のライティング・ビューロー」
飴色のライティング・ビューロー(ギーオウ・エーケン)

こちらも、室内における光の表現例。

おそらく絵に向かって、右手前に窓があるのだろう。

その光が、木製の家具や絵に反射する様がリアルで、
そして何と言っても、
深い緑色を着た娘さんをここに立たせることによる、
構図的・色彩的バランス感覚。

・ヴィゴ・ヨハンスン「きよしこの夜」
きよしこの夜(ヴィゴ・ヨハンスン)
光の表現を大胆に押し進めたものが、これ。

決して劇的な場面ではなく、
温かい家庭を想像するにはこの上ない題材(クリスマス)でもって、
光と陰との極端なコントラストを表現するというのは、
素直に上手いなぁ、と思う。

そして最後に、屋外の光表現を。

・ユーリウス・ポウルスン「夕暮れ」
夕暮れ(ユーリウス・ポウルスン)
写真やPhotoshopの技術であればもはや陳腐なのだけれど、
古典的絵画において、夕暮れ時の靄がかかった空気感を、
このような「ぼかし」で表現するというのは、
なかなか斬新なのではないだろうか。

実はまだまだ紹介した作品がいくつもあるのだけれども、
このままではいつまでたっても、主役のハマスホイに辿り着かないので、
前半はここまで。

では、ここからはヴィルヘルム・ハマスホイの作品を。

今回、ハマスホイの作品をじっくりと観て思ったことは、
彼の色使いについてで、

基本的に色数は少なく、
明度と彩度をぐっと抑えることに特徴があり、
ゆえに、「暗い」という印象を与えがちなのだが、

まぁそれは短調のメロディを「暗い」と評するのと同じで、
作品の本質を貶める表現ではなかろう。

・ヴィルヘルム・ハマスホイ「ロンドン、モンタギュー・ストリート」
ロンドン、モンタギュー・ストリート(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
解説によれば、彼の作品で海外を題材にしたものは珍しいらしいのだが、
でもこの薄暗い、靄がかったロンドンの様子は、
確かにハマスホイ好みであったかもしれない。

静けさの中に調和と不安とが漂うような、
魅力的な作品だと思う。

ハマスホイは、室内をよく描いたことでも知られる。
特に、誰もいない室内。

「私はかねてより、古い部屋には、
たとえそこに誰もいなかったとしても、
独特の美しさがあると思っています。
まさに誰もいないときこそ、それは美しいのかもしれません。」
(1907年、ヴィルヘルム・ハマスホイ)

引っ越し先を下見にいったときの、
あの何の生活感もない、「まさに部屋であるだけの部屋」に、
奇妙な感覚を覚えた人もいるだろう。

部屋とは人の生活のためのものであるのに、
そこから生活感を排除することで、
より美しくなり得るという、矛盾。

そこにハマスホイの美意識は目を向けた。

・ヴィルヘルム・ハマスホイ「室内ー開いた扉、ストランゲーゼ30番地」
室内ー開いた扉、ストランゲーゼ30番地(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
ただ開かれたドアたちと、冷たい床があるだけの風景。

これを少しでも美しいと思えるならば、
ぜひこの展覧会に足を運ぶべきだ。

・ヴィルヘルム・ハマスホイ「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」
ピアノを弾く妻イーダのいる室内(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
奥に、ピアノを弾く画家の妻の背中が見える。

けれど、ここには音楽はない。
夫と妻との心の交流もない。

テーブルしかない部屋の空気が、
すべてを支配している。

・ヴィルヘルム・ハマスホイ「カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレスゲーゼ25番地」
カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレスゲーゼ25番地(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
僕なりの絵を鑑賞するコツのひとつとして、
その絵の中心に描かれているものを知る、というものがある。

さっきの絵では、
たしかにピアノを弾く妻がほぼ中央にいたが、

それよりも、妻との間の距離感が強調されすぎていたため、
妻の姿が安定感を与えることはなかった。

けれどこの絵では、
奥行きが抑えられているせいもあり、

中央に置かれた植物とランプとが、
左から射し込む淡い窓越の光ともに、
不思議な安心感を醸し出していないだろうか。

何もない部屋であるからこそ、
逆に、小さな存在が大きな意味を持つことになる。

これは、普通の部屋から引き算して、
ランプと植物を残す、というやり方ではなく、

「ゼロ状態」の部屋の美しさを知っているこの画家ならではの、
絶妙な足し算なのではなかろうか。

そして最後に、この有名な一枚。

・ヴィルヘルム・ハマスホイ「背を向けた若い女性のいる室内」
背を向けた若い女性のいる室内(ヴィルヘルム・ハマスホイ)

僕は、この絵の美しさは、
構図にあると思っている。

左上の額縁と壁の表面の枠、
さらには左下の棚というように、
この画面を占める矩形の安定感の中に、

壺と女性の体が織りなす曲線とが、
上手くマッチしているのだ。

画面の中心には女性の左肩があり、
そこから腕と頭へのラインが画面の対角線をなし、

左上の額縁から右下へ引き下ろされる対角線とは、
ちょうどその左肩で交差する。

つまり、基本的には極めて安定感の強い構図であるのだが、
肝心の女性が、俯き加減に背中を向けているがために、

ただ安定しているだけではない、
複雑な表現がプラスされているわけだ。

もしこの構図のままで、
女性が笑顔で正面を向いていたら、
それはつまらない絵であっただろう。

逆に、背景の安定感なくして、
女性がこの絵のポーズをしていたとしても、
それはそれでつかみどころがない絵になっていただろう。

このような安定と不安定のコントラストさえも、
ハマスホイは計算に入れたいたに違いない。

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