「東路記 己巳紀行 西遊記 」(新 日本古典文学大系)

「己巳紀行(きしきこう)」は、

丹波丹後若狭紀行
南遊紀事
島上紀行

の三部からなる紀行文で、

いずれの旅も、
十干十二支の「己巳」(「つちのとみ」または「つちのとのみ」)の年、
つまり元禄二年(1689年)のものであることから、
このように名付けられていると思われる。

益軒の客観的著述姿勢は、
以前紹介した「東路記」と同様であるが、

特に「南遊紀事」においては、
『太平記』の愛読者であった益軒らしく、
その史跡について興味深く記したり、

また吉野の桜を目の前にしては、
その感動を素直に書き残したりしているのが、
印象的である。

目の及ぶ所をながめやりしに、
花、今をさかりにさきて、
その多き事、幾千万株という事をしらず。

その景色のおもしろき、
言語の及ぶ所にあらず。
たとへをとるに、ものなし。

もし、しゐていはば、
雪のあけぼのにたとへてんや。
それもひたじろにて、わきためなく、
めすさまじきのみにこそあらめ。
このよそほひには、くらぶべからず。

「もろこしにも、
かやうの艶なる見物はあらじ」
とぞおもふ。

いきてかかる処を見るは、
まことに大なる幸なんめり。
(中略)
外物を以て心を動かさざるは、
物に処する道なれど、
再び見ん事かたければ、
名残おしからずもあらず、
久しくやすらひて去りがたし。

「外物を以て心を動かさざるは、
物に処する道なれど」
つまり、
「物事に対処するときは感情的であってはならない」
を信条とする益軒が、

ここまで露骨に感動を述べていることに、
読者であるこちらも心を動かされる。

「敢えてたとえるならば、
雪の曙かもしれないが、
あれはただ真っ白なだけで面白くない」
という表現からは、

逆に目の前の満開の桜景色が、
ただの一色ではなく、
絶妙なグラデーションで塗られていることを、
視覚的に伝えていることも、
さすがの文章力だと思う。