絵画の多様性というものを、極めて単純化して考えれば、
それは、「何を描くか」「どのように描くか」ということに行き当たる。

江戸時代は、長いと言われるけれども、たかが250年間。

音楽や絵画といった、保守的な芸術にとっては決して長い時間ではなく、
さきほど挙げた2つのベクトルのうち、「何を描くか」については、
250年の間に際立った変化は見られない。

しかしながら、2つめのベクトルについては、
まさに驚嘆に値するほどの変化を見せる。

しかも江戸時代の文化圏など、ほぼ江戸と上方しかないわけで、
そのような限定されたテーマ・場所・時間に拘わらず、
如何にしてここまでの多様な形式が開花したのか。

それは世界の美術史上の、奇跡の一つに挙げられるだろう。

さて、我々の「眼」という感覚器官(アンテナ)は、
可視光線を拾うように作られている。

それはすなわち、中心星である太陽の放出光が可視光領域であるからで、
もしも太陽がブラックホールのように、X線を放出する天体であったならば、
我々の眼は、X線をキャッチするアンテナになっていたに違いない。

眼が可視光線を拾うからこそ、
動物も植物もファッションも、そして視覚芸術も、
基本的には「色」を求めて進化してきた。

例外もある。
絵画においては、「墨画」がそれで、ただ、墨画の存在というものは、
我々日本人が思っているほど「当たり前」のものではない。

色無き画面で色を見せ、
レイアウトの妙でその善し悪しが決まるというこのジャンルは、

伝統的な西洋絵画では見られなかったものであり、
現代の感覚で言えば、デザインワークに近いのかもしれない。

今回の展示で、一際目を引いたのが、池大雅の「雪竹図」。

 

雪竹図

画面の右半分を半円形にしなった竹が占めるという構図は、心にくいばかりで、
ただそれだけでは縦長の画面に安定感が生まれないため、
画面下部に、濃墨色の幹をもう一本、横に配置している。

この計算し尽されたレイアウトは、
天才・池大雅だからこそなし得た技であり

ここまで高度な墨画は、江戸時代にもそうそうあるわけではなかろうが、
江戸絵画の魅力や奥深さを知る上での、最適なサンプルだろう。

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