思いも寄らぬ方向から、新たな発見があるというのは嬉しいものだ。
何度も見慣れてきた、東京都美術館の入り口にあるこの金属球のオブジェ。
この日、隣を通り抜けようとすると、不思議な音が聞こえてくる。
はて、と思って音のする方を見ると、子供が2人、この球を叩いているではないか。
珍しさに撮影をしている人たちはたくさんいるけれど、
叩いている人を見たことはない。
大人になってヘンな常識が身に着くと、
「作品は目で見て楽しむもの」というステレオタイプで固まってしまう。
かく言う僕も、この球体を叩くとどんな音がするのだろう?と思ったことはなかった。
まったく子供たちの想像力・行動力というのは称賛すべきものだと思う。
そうでなければ、この球体がこんな音を出すなんてことには、
一生気が付かずに終わっていただろう。
何事も、まずは先入観を捨てること。
美術館の入り口での、いきなりの教訓であった。
さて、この「ポンピドゥーセンター傑作展」では変わった展示方法が採られていて、
1906年~1977年までの間で、その年に発表された作品を1作品ずつ展示している。
(なお、1作家1作品であり、また、人類にとって意義深い年として、
1945年については展示がなく、そこではエディット・ピアフの「愛の賛歌」が流れていた。)
つまり、作風や主義における関連性のない作品が次々に目に飛び込んでくるわけで、
鑑賞側も、相応の集中力をもって臨まなければ、
印象が散漫になってしまうというデメリットがある。
もちろん、それほど美術に深い関心がある人でなければ、
いろいろな作品を少しずつ「つまみ食い」できる良い機会ではあるのだが。
正直、僕も途中で結構疲れてしまい、
これは観る順番を変えようかしら、と思ったほどなのだが、
ただこの年表的展示に身を任せるからこそ、
真にインパクトのある作品が見つかるのかもしれない、という期待もあった。
ではそのインパクトのあった作品をいくつか紹介しよう。
・ピカソ「ミューズ」(1935年)
確か日本初公開ということらしいが、
間近で見ると、意外と色鮮やかなので驚いた。
写真で見ていた印象では、冷たく陰鬱な印象があったのだけれど、
実際に見てみると、もっと明るい。
ただその明るさと、右に座っている女性の表情の寂しさとのアンバランス具合が、
独特の魅力をもっている。
ここに辿り着くまでが、割と退屈な作品が多かったので、
これを見たときは、さすがはピカソだと思った。
・カンディンスキー「30」(1937年)
グリッドという秩序の中に、自由な形を織り込むという発想が心憎い。
ただその「自由な形」も、プランクトンを思わせるような有機物的形態をしていて、
これは秩序の中から生命が誕生するという暗示なのでは、と思ったりもする。
モノトーンであることも含めて、ちょっとカンディンスキーらしくないが、
そこが妙に新鮮でもある。
・ラム「物音」(1943年)
ヴィフレド・ラムという人はキューバ生まれで、父親が中国人という珍しい出自の画家で、
今回、初めて存在を知った。
キュビズム的手法で描かれた作品なのだけれど、
ピカソとはまた異なる暗さ、DNAが発するエネルギーの渦のようなものがある。
・マティス「大きな赤い室内」(1948年)
今回は、このマティスを一番時間をかけて鑑賞した。
あまり混んでいなかったので、至近距離で細かく見てみると、
何種類かの「赤」を意図的に使い分けていたり、
場所によって筆の使い方を変えていたりすることに気付く。
マティスの絵というのは、離れて見ると大味に感じてしまうことが多いのであるが、
細部を見ると、あらためて凄味を感じさせられる。
色だけではなく構図も含めて、やはりマティスの絵はマティスにしか書けない。
・ブーバ「リュクサンブール公園、初雪」(1955年)
最後は、この作品。
雪景色ということもあり、白と黒のコントラストが効果的だ。
一番感心したのは、上半分を樹木の列が占め、
下半分には網状の物体(椅子?)が配置され、
その上下の枠の真ん中で、子供たちが自由に動きまわるという構図である。
間違いなく計算し尽くされているわけだが、
この上下のフレームがあるからこそ、子供たちのランダムな配置と運動の瞬間が、
実に効果的に際立ってくる。
この一時停止された映像を、「再生」すれば、
次の瞬間には、どの子どもも同じ場所には留まっていないだろう、という想像も、
絵画では味わえない写真の楽しみ方なのかもしれない。