老子による『道徳経』、いわゆる「道」(タオ)の思想の解説書である。
これは江戸時代からの悪しき風習だと思うのだが、
我が国の教育において、まず学ぶべき中国の古典は『論語』となっている。
しかし『論語』や孔孟思想の儒教は、
年齢を重ねるに従って、うるさく感じられてくるわけで、
それと対極にあるのが、
老子・荘子の唱える「道」(タオ)の考え方だ。
荘子が完全に浮世離れしているのに対し、
老子の方は地に足が付いているというか、
現実世界の中でいかに「道」を身に着けるのかということに、
力点を置いている。
孔孟思想の核を為すのが「仁」であり、
それはあくまでも人間社会における生き方の哲学であるとするならば、
老荘思想の中心にある「道」とは、
宇宙的な視野をもった哲学といえるのではなかろうか。
いやむしろ、宇宙論そのものと言ってもいいかもしれない。
「道」(タオ)の基本にあるのは、
何事も区別せず、同一と為すという考え方なのだが、
我々は目の前の、パソコンやワイングラスやネコをそれぞれ別のモノとして捉えがちだが、
しかしそれをミクロレベルまで分解すれば、
どれも同じ「原子」からできているに過ぎないのであり、
そしてその原子を生み出しのがこの宇宙であるのならば、
それぞれの「モノ」の生みの母である宇宙的視点で思考・行動すべきである、
というのが「道」(タオ)の本質である。
そのような考え方ができるようになると、
日常生活における、人間関係や仕事や勉強といったあらゆる物事が、
些細なものに感じられてくるわけだが、
老子はそれらを無視すると言っているのではなく、
宇宙的な視点でそれらを捉え、日常を過ごすことで、
形式的には今までと変わらぬ日常であっても、
自分による社会の見方、社会による自分の見方がまるで変ってくる、と言っているのだ。
そこには宗教のような、「生と死」「正義と悪」のような二元論はなく、
あくまですべてを「一」と捉えることによる、
究極の処世術こそが「道」(タオ)なのである。
「仁」には「仁」の良い面があり、
「道」には「道」の良いところがある。
思うに、我が国の教育は「仁」に偏り過ぎた。
そろそろ「道」(タオ)の思想に、もっ注目すべきではなかろうか。