昨年(第二十六回)の十段目で、
常磐津版の『仮名手本忠臣蔵』は終わりとのことだったので、

忠臣蔵の最後を締め括る今年は何を演奏するのかと思っていたのだが、
『忠臣二度目清書:寺岡切腹の段』
という、「忠臣蔵外伝」にあたる曲だった。

これは常磐津都㐂蔵氏の家のみに伝承されており、
他にはない貴重な作品だとのことである。

義太夫では演じられることがほとんどないが、
十一段目のいわゆる「討入の段」の代わりとして、

唯一の生き残りである寺岡平右衛門によって、
討入の様子が語られる、という内容となっている。

この会を聴くのは今年で三回目だったのだが、
若手の太夫さんたちも、確実に上達しているし、

何と言っても、八年かけて、
「常磐津古正本による忠臣蔵」全曲(+α)を演奏するという、
偉業を成し遂げた常磐津都㐂蔵氏には感服せざるを得ない。

浄瑠璃というと、文楽や歌舞伎など、
視覚芸術を伴っての音楽だと想像しがちであり、

だから、音楽のみの「素浄瑠璃」が演奏される際には、
舞台音楽なのに舞台(人形や役者)がないという、
一種のジレンマを感じてしまう、と思っていたのだが、

常磐津には、元々素浄瑠璃で演奏されるために書かれた曲が存在しており、
そのような曲を伝承していくことこそが、この会の意義である、
と最後の挨拶で都㐂蔵氏が語ってらっしゃるのを聞き、

成程、と思うと同時に、
文化を伝承することの意義というものについても、
いろいろと考えさせられた。

鑑賞の態度として、
視覚を伴うと、どうしても聴覚の比重は低くなる。

素浄瑠璃のように、耳だけで味わってこそ、
音楽も物語も、真の魅力を発揮できるのだと、
身に染みて感じることができた。

和歌にせよ、物語にせよ、
日本の文化は言葉とともに成熟し、伝承されてきた。

そしてその言葉や詞を、
芸術の域まで高めたのが浄瑠璃であって、

それを最もストレートに体験できるのが、
まさに「素浄瑠璃」なのである。

しばらくこの会はお休みとのことだが、
また機会があればぜひ足を運びたいと思う。