アンディ・ウォーホル展

僕より少し上の世代の、いわゆるクリエイターを名乗る人たちの間での、神的存在。

好きなアーティストは?と言われたら、
「ウォーホル」と答えておけば、まず間違いないというような。そんな存在。

色眼鏡を抜きにして、あらためて、ウォーホルとは何だったのだろう、と考えると、
アメリカのポップカルチャーの渦中で、
アートとは?デザインとは?商業主義とは?ということにとことん悩んだ人であり、
逆に、彼の作品をつぶさに眺めることで、
アートとは何か、デザインとは何か、商業主義とは何かetc、ということが浮き彫りになってくるのだと思う。

ウォーホルの魅力を僕なりの言葉で語れば、
対象(オブジェ)、マチエール、肉感・・・要するにきわめて「具体的」だということだ。

純粋なアートというものは、多かれ少なかれ、「抽象化」のベクトルをその内部に潜在させている。
そしてその抽象化されたキーを探り当てることが、芸術鑑賞の快感でもある。

ウォーホルの場合は逆だ。

まず、対象ありき。

そこに描くべき対象がまずあって、それを手垢にまみれるまで捏ね回し、作品に仕上げる。

それは、「伝えるべきこと」が最初に存在するデザインの手法とも、また異なる。

「対象」を冷めた目で見てしまうと、衒学的な、退屈な作品になってしまいがちなのだが、
ウォーホルの目は熱い。手も熱い。

「対象」と同化せんばかりに内部に喰い込んでいる。

このようなアプローチは、従来のアートとは全く異なるもので、
面食らった人たちは、これを「ポップアート」と呼ぶ。

ポップなものか、と僕は言いたい。

そこには、芸術家がつい盛り込んでしまいがちな、自己表現なるものすら存在しない。
きわめてストイックに、「対象」を抉っているのであり、

ただ、彼の選択した表現手法や言動が、あまりに分かりやすく感じられるために、
多くの人は、「ポップアート」や「商業アート」と呼んでしまう。

アートにおけるベクトル(作ル側も、鑑賞スル側も)は、一方向ではない。

ウォーホルにおいて重要なのは、何を作ったのかではなく、どうアプローチしたか、だ。

そのような視点で、ウォーホルの作品を眺めると、
創作活動ということに関しての、とてつもなく深淵なテーマが、奥底に眠っている気がしてならない。