私はエーテル信者である、などと言うと、
まるで宇宙人の存在を信じているというのと同じぐらいに、
奇異な眼で見られるに違いない。
でも、かつて「空っぽ」だったと思われていた真空に
「真空エネルギー」が見つかったように、
光を伝える媒体は、
もしかしたらそれは「エーテル」という名では呼ばれないかもしれないが、
必ずや存在すると思っている。
印象派の画家たちが光を描いたのであれば、
スーラはまさに「エーテル」を描いた画家だった。
点描、というと奇抜さだけを狙ったチープな手法だと思われがちだが、
光を点に分解するという手法は、
来るべきアインシュタインの光量子仮説を予言しているともいえるし、
そうでなくともそれまで常識だと思われていた、
光を連続した存在として捉える考え方からは、
大きな進歩を遂げているのである。
さてここからは私の妄想なわけだが、
だからといってスーラは、「光の粒」を描いたわけではなく、
エーテルに浮かぶ光を描いたのだという気がしてならない。
つまり、対象を光によって分解するのではなく、
対象に纏わりついた「気」(=エーテル)に、
光を散りばめたのではないだろうか。
そしてこのような対象の捉え方の行き着いた先が、
野獣派と呼ばれるフォーヴの画家たちの作品なのだと、
ひそかに思っている。
すなわち、存在するのは対象ではなく、
「気」であり「色」なのだと。
享年31歳。
スーラほど、晩年の作品を見てみたかったと思う画家は、いない。