竹倉 史人 著「土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎」(晶文社)
「土偶とは植物や貝類をフィギュア化したものである」
という、従来の学説を覆す主張により、
サントリー何とか賞を受賞し、
一時期話題になった本。

もちろんこの分野にはド素人の、
僕の個人的な見解を求められれば、
迷わず、「ノー」。

その理由としては、
・本書内で矛盾している箇所が多々ある
・なぜ植物と貝類で、その他の生物でないのか、の説明がない

など、
フィクションとして読めばそれなりに楽しめるが、
学術的には、かなり厳しいという印象である。

著者は、「単に~に似ている」というだけでは、
学術的にNGである、
みたいなことを主張しているのだけれども、

それって結局、
ブーメランなんですよね…。

百歩譲って、
ここで紹介されている土偶のうちのいくつかは、
確かに著者の主張のように、

特定の植物をモチーフとしている可能性は、
ゼロではないと思うが、

それを一般化しようとした試みが、
よくないのだと思う。

と、ここまで書いて、
デジャヴを感じたのだが、

以前、「万葉集は韓国語で読める」
という主張があったことを思い出した。

古代日本語の中には、
韓国語の影響を受けているものが、
いくつは存在しているのだとは思う。

ただしそれを一般化して、
「万葉集は韓国語で読める」
としてしまうと、

本書同様に、
途端に眉唾モノになってしまう、
ということ。

そもそも、縄文人はなぜ土偶を作ったのか、
という、核心部分にまったく触れずに、

「このタイプの土偶は、~を象ったものである」
という主張をいくら声高に行っても、

ふーーん、そうかもしれないですね、、、
という反応がメインになるであろうことは、

考古学は専門ではないかもしれないが、
学術界に身を置く著者であれば、
分かりそうなものだと思うのだが…。

本書に対する、
考古学界からの詳細な批判書もあるらしいから、
そちらも近々読んでみたい。

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